同人女のたわごと

二次腐のあれこれ独り言です

頼むからリバ民はリバ民で胸を張って生きていてくれないか

やっぱり固定リバはきのこたけのこ。

久しぶりにため息ついたので、埃を被ったはてブロ更新にきてしまった。ABかBAか決め兼ねてるCP不定の話を読むか?と聞かれた左右固定民が読まないと言っただけで燃やしにくるの、一体何?

しかも被害者みたいな顔をしてくるの、本気で何?当たり屋?

読まないって言った人たちは別に誰も「書くな」と言ってないのに、話がすり替わっていて「CP不定書くと領土侵犯と思われちゃうのかも」「リバ民は好きなものを描きたいだけなのに抑圧されている」ってことになるの、いい加減にしてくれ〜!と天を仰いだ。

「時にこっちは好きなもの引っ込めなくちゃいけないのに、読みたくないものがある側はストレスなくていいよね」という発想にいたっては本当に驚いてる。被害妄想すぎる。

描けばいいじゃん。好きなもの。引っ込める必要がどこにあるんだ?

しかも読まないだけの固定者は抑圧してくる存在じゃないと言いながらも、その読まないだけの固定者に自ら聞きにいった挙句、Not for meを丁寧に言われたら抑圧されている話をする。話が滅茶苦茶だ。書いていて自分でおかしいと思わなかったのだろうか?

これって、CP不定は左右固定だと好きじゃないんだ…じゃあ描くのやめた方がいいのかなと勝手に忖度して自粛する虚しさを、左右固定者のせいにしているだけじゃないのか。

※ここまでの序文で騒動元が分からず何を愚痴っているのか分からない人は、ここで読むのを止めるの推奨です。厳密に言えばCP不定=リバとも違うのでは?と思っていますが、騒動元でCP不定の話をリバの人がリバの問題として取り上げていたので、それ前提で話をします。

 

1)CP不定を読まない固定たち

昨今固定という言葉はだいぶフワフワしていて、AB固定=ABが好きくらいの軽さで使っている人もいたり、それこそAB固定(読むのは雑食)みたいな使い方している人も増えているが、本来AB固定=自分の中でAB以外AとBは成り立たないのでよろしくというくらい強い言葉だ。

左右固定民でも、中にはCP不定作品だけどもしかしたらABにしか見えない作品かも…と読む人もいるだろうけれど、AB以外の概念がありえるなら読まなくていいやとなる人が一定数いるのだって道理だと思ってほしい。

 

それでもって、恐らくここが「これ左右固定じゃないけど、固定民にも読んでほしい」と特攻してくる人が躓くポイントなのだと思う。

 

というのも、CP不定のAとBの話を何故固定の人読まないのか理解ができない人たち、AB固定=ABに見えれば何でもいいのでは?と思っている節がある。んなわけない。

AB固定=AB以外成り立たないだ。ABが好きというポジティブな意味と並んで、排他的でネガティブな意味を持っているのである。だからCP不定と言われたときに出てくる感想がNot for meだったりする。AB固定はAとBのキャラなら何でもいいわけじゃない。AとBのごく特定の関係にしか興味がないから固定。AとBのこういう関係もああいう関係もいいよね、とはならない。

たとえばこれ、CP不定を勧めてくる人からみたら、ABもBAも同軸リバもCP不定も同じ柑橘類なのに…という捉え方だとする。一方、固定者はオレンジとグレープフルーツとレモンとみかんは同じ柑橘類でも違う果物だと思っているくらいの認識の齟齬がある。それでもってこの場合、オレンジしか好きじゃないです=AB固定なのだ。みかんならオレンジが好きな人でも食べられるでしょ、と言われて差し出されても、いやこれはオレンジと違うし、みかんだからみかんが好きな人が食べなよとなる。

この固定という言葉の強さ、本来はリバ固定の人だって同じはずなんだけど、数年前に書いた記事にある通り、リバの定義もフワっとしている部分があるせいで話が拗れるのかもしれない。(ちなみに私は本来ABとBAとリバ全て読める人はリバ民じゃなくて雑食だと思ってるんだけど、ここら辺の定義づけはリバが好きな人が議論を煮詰めてほしい。)

 

ともかくだ。

CP不定の話、好きな人はわりといるはずだ。むしろBLがライトに広まって、この概念の需要はかなり伸びているように思う。

でも読まない人だっている。それだけの話である。

たかだか二次創作、読まないことは悪ではない。

AB固定やBA固定の人にも読んでもらいたいからとりあえずCP不定にしておいたのにっていう話だったら浅知恵だ。でもそうじゃないはず。

CP不定が好きなら、CP不定が好きと胸を張ればいい。

大事なのは読者の数じゃないし、固定に混ざれることでもない。注意書きやタグ管理の件なら、左右固定だってちゃんとやらなきゃ揉めるんだからリバだけの問題じゃない。

 

2)何故「抑圧」に話がすり替わったのか?

一番の問題はここだろう。

辛辣な意見になるが、読まないといった意見を聞いただけでこの思考に辿り着くの、結局のところ「読んでさえもらえれば好きになってもらえるのに」という気持ちが根底にあるからだと思う。

この読んでもらうというトリガーを否定されたから、作品を書くこと自体自分で否定してしまって(つまり、他者に好かれない作品は描く意味がないという無意識の抑圧が起きている)、さらにはその否定を読まない人たちに転嫁しているのかもしれない。

いいか、再三書くが、左右固定者は「書くな」とは言っていない。好きになってもらえるかも!と押し付けてこないでほしいだけだ。本当に、自衛していることを一々暴き立てにこないでほしい。こっちだって無駄に揉めたくて自衛しているわけじゃない。

このリバ生きづらい問題の発祥が、CP不定の話を描いたら固定から怒鳴られたとかなら、それは確かに可哀想な話である。その場合は怒鳴り込んできた方が悪い。もちろん、タグ詐欺は除くけど。

でも、現実はそうではない。

単に読む?と聞かれたから読まないと答えた人たちがいるだけなのだ。読む・読まないは自由としながら生きづらさを自覚した話をするの、読んでもらえるのがスタンダードだと思うからそうなる。ここが歪んでいる。二次創作はその特徴からして、誰にでも読んでもらえるものじゃないからだ。CP不定だからじゃない。左右固定だって例外ではない。

言っておくが、固定民ならいつも仲間がいっぱいいるってわけじゃないし、肩身が狭いジャンルだってある。

むしろ固定民、自分の解釈が絶対すぎて同じ固定民の作品でもちょっと解釈のブレがあると読めないなんてザラにある。友人の作品でも読めないときは読めない。そういうものだ。他人の二次創作は全部NGの同担拒否型もいる。

私も作家側だが、自分の作品を読まない人たちがいることを承知しているし、そういう読まない人たちがいる方が健全だとも思っている。自分の解釈がマイナーだと確かに寂しく思うことだってあるけれど、好きでもない人に無理に読ませるよりは少数でも好きな人が読んでくれる方がずっといい。

同人活動は確かに同志と繋がる楽しみがあるし、争うものではないが、かといって全員でおてて繋いで仲良しこよしするものでもない。

 

3)好きなものが同じじゃなくても友人になれるけど

生きづらさの話にいきなり飛んだの、もしかしたらこの問題を孕んでいるのかもしれないと思って書く。

最初に書くけど、別に雑食の人と左右固定の人でも友達になれるし、リバの人と左右固定の人だって友達になれるし、逆CP同士でも友達になれる。

たとえば別CPでお互い相手のCPは好きじゃなかったけど、自分とその子は原作の話で楽しく会話していたし、ジャンルが変わった今も仲良くしている…みたいな人、結構友人にいたりすると思う。推しCPというのは友人の好きなものの一つでしかないので、それ以外で馬が合うこと自体は珍しいことではない。

ただ、相手の苦手な話題に付き合わせていたら、いつか関係は破綻する。

もちろん何でも言い合える仲が友人という定義の人もいるだろう。でも、その場合は良いことも不快なこともお互い受け入れられる仲という前提が必要になる。友人はイエスマンでも全肯定botでもない。一方的に優しさに甘える関係は無理が来る。

だからね、やっぱりCP不定の話がしたいなら、それは左右固定民に基本的に持っていく話題じゃないし、ちゃんとCP不定の話が好きな人とするのが一番お互い気持ちよく話せると思う。このCP解釈はありかなしかを議題にするとネガティブな意見をどうしたって踏むからだ。それよりどこが好きかを、同じ嗜好の人たちと話す方が楽しいだろう。

リバの人がこの話題は人を選ぶのかも…と思っていることがあるように、左右固定拗らせている人だって左右固定の小さなクローズドのコミュニティの中で終わらせてる話もある。こういうのは無理して混ざり合ってもトラブルの元になるだけだ。

※マ〜〜〜ジで左右固定をガチ拗らせてる人だって肩身狭いなと思ってたりするんだな。リバの人からみたらそんなことないように見えるのかもしれないが、左右固定民から見たらわりとみんなAB以外にもCBが読めたり、A受けも好きだったりして、解釈の食い違いで狭い人間関係でしか心置きなく話せないこともある。

 

 

最後に。

「リバ民は生きづらい」と苦手なものがある固定民を燃やそうとするの、いい加減にしてほしいなと思う。

いちいちちょっかいを出して、勝手に傷ついて、それで固定に偽装しなくちゃいけないのか…みたいな謎の発想に飛ぶのも止めてほしい。“自分の作品は万人から愛される価値がある”という願望は子どもじゃないのだから卒業してくれ。こと二次創作物において。

 

そのうえで。

固定・リバ・異性愛・同性愛関係なく、同じ嗜好のコミュニティの規模がどうであれ。

作品を作るときぐらい、自分が好きなものに対して誠実になってほしい。

CP不定の話が好きならそれでいいじゃないか。リバが好きならそれでいいじゃないか。二人の関係の名前が決まらないのであれば、無理にABかBAか決めなくてもいいじゃないか。それで読む人が限られようが、拗ねることではない。

マイナーだったら描く意義がないのか?読まない人がいたら意味がないのか?そんなことないだろう。

嘘をついて左右固定の皮を被るのではなく、作品のコンセプトから外れたCP名をつけてクリック数を稼ぐのではなく、好きなことに誠実に向き合ってほしい。数字ではなく、自分のなかの情熱と向き合ってほしい。

それが許されるのが商業化されていない同人の特権だと、私は思う。

 

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ここからは余談です。

要するに、好んでくれない人がいる=生きづらいなら、リバは関係ない。左右固定だって生きづらいという話になる。自作を好んでくれない人なんて普通にいる。好きだと言ってくれる人が全員解釈一致なわけでもなく、平然とAB作品なのにCBの描写も良かったです〜とか言われたりする。リバの人に自衛を咎められたりするし、RT先でBAと言ってくる人が湧いたりする。別CPから嫌がらせを受けたことのある左右固定者だって少なくないだろう。誰もが楽しく活動できてるわけじゃない。

だけどまあ、それでも本当は“生きづらい”は二次創作に持ち込む概念じゃないんだよなとも今回の件で考えたりもした。

人権という言葉と同じく、ジョークだった言葉がジョークじゃなくなった瞬間、話がおかしくなってしまう。好きで二次創作するんじゃなくて、居場所づくりで二次創作するの、結局大概の人が多かれ少なかれ病んで続かなくなるから止めた方がいいんだよね。

話が最後脱線したけど、自戒を込めて以上です。